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荒木常能氏 「三条-金物の歴史」 講演会 2

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第二期 中世の時代

 

 さて中世、歴史区分で言いますと、

 

古代は奈良、平安時代、奈良時代の前は古墳時代といいます。

 

その前は弥生、縄文時代となるわけです。

 

中世というのは鎌倉幕府の成立から江戸幕府の成立までの間、

 

これを中世と言っております。

 

中世の越後はまず一番大きな城下町として春日山、

 

次は三条だったのです。

 

つまり越後中央部を治めていた大事な地だったということです。

 

三条の次は栃尾、謙信が十代の頃いて、敵と戦ったという地ですが、

 

栃尾というのも勢力のあった土地です。

 

ところで先ほど、六日町、いわゆる上田から下田へ来た

 

といいましたが、当時は下の平地の道よりも山道の方が

 

発達していたのですね。

 

皆さんご存知かと思いますが、新田義貞が鎌倉攻めしたときに、

 

七人の天狗が山を駆け巡って兵を集めたと言われています。

 

ここでも五十嵐小文治が馳せ参じたそうです。

 

ということは平地、いわゆる蒲原平野とか平野部は湿地帯なのです。

 

山城、砦のようなものが随所にあって、

 

下を通る者を見つけやすい場所ですから、

 

平野部の道はあまり利用しない、

 

しかも平野部の旅行は船が必要でした。

 

そんなわけで山道の方が発達していました。

 

時には山賊もでます。

 

ですから、常に武装して行動しなければならないという、

 

物騒な時代ではありましたが、山道は便利だったのです。

 

ですから五十日足彦は上田郷から下田郷まで山道で来たのだろう

 

と言われています。

 

これは上田が高くて、下田が低いと、だから下田郷だというのです。

 

中世は春日山、三条、栃尾さらに長岡の蔵王というところに

 

蔵王城がありました。

 

この頃大阪の河内に、鋳物師の総元締めがおりました。

 

その河内から職人が全国に派遣された。

 

それで越後では三座、座は組合のことです。

 

まず頸城の青野、これは昔の直江津の辺りですね。

 

青野というところは頸城郡と信濃の一部に

 

出荷する権利をもっていたそうです。

 

その次もう一つは、刈羽郡にあった大久保、

 

これは柏崎にある大久保というところです。

 

今でも大久保に鋳物師がいるらしいです。

 

大久保で古志郡、三島郡、刈羽郡、魚沼郡に出荷の権利を持っていた。

 

さて三つ目が蒲原の大崎。

 

数年前に鋳物師の集落跡が発掘されまして、

 

ここで遺物がいろいろと出てきました。

 

この大崎というのは蒲原郡にありました。

 

蒲原郡は広いので、

 

明治十一年に南蒲原郡、中蒲原郡、西蒲原郡、東蒲原郡、北蒲原郡、

 

この5つに分かれました。

 

東蒲原郡は会津の一部も入っていました。

 

明治十一年に東蒲原郡は新潟県に編入されました。

 

東蒲原の津川辺りの人は、今でも文化圏は向こう側、

 

会津側と考えている人も多いそうです。

 

蒲原だけでなく、会津の国の一部まで出荷の権利をもっていた。

 

会津へ行って金を作っているのですね。

 

金というのは梵鐘。

 

大崎の座でできた鰐口(わにぐち)があるのですが、

 

明治十三年の大火で焼け落ちて壊れたのですが、

 

一応形を保っています。

 

今、歴史産業資料館に展示してあります。

 

ここに書いてあるものが面白いのですが、

 

越後の国蒲原郡大崎八幡宮鰐口大願主新保守秀敬白あります。

 

新保守秀という豪族が奉納したと。

 

もうひとつには文明三年八月吉日大工が作ったと書いてあります。

 

ここで注意していただきたいのは

 

すべての職人の親方を大工、小工は工賃、その下の作る人のこと

 

をいいます。

 

こういったことが鰐口からわかるわけですね。

 

そういうわけで、今でも鰐口とその後にできた梵鐘が残っているのは

 

誠に貴重です。

 

歴史の遺物といっていいのではないでしょうか。

 

この場合鋳物師の座、組合だけを申し上げましたが、

 

蝋座、針座、胴座もありました。

 

その原料ははたしてどういうふうに運ばれたのだろうか、

 

ということも難しいことです。

 

一番考えられているのは出雲、

 

出雲にはヤマタノオロチの伝説がありますように

 

川から砂鉄がとれます。

 

それを出雲から船に乗せて運んだのだろうと思います。

 

例えば千石船、つまり米を千石乗せられる船という意味です。

 

三条から村上藩に米が納められます。

 

百姓が納めなくてはならないのですね。

 

納められた米を小倉川から船で新潟まで運ばれます。

 

新潟から北前船に乗せられて、下関の関門海峡を通って、

 

大阪まで運ばれ、そこで売りさばかれます。

 

これが村上藩の大事な収入源だったということです。

 

千石船といいますが、千石はどのくらいかというと

 

米俵にして二千五百俵もの米を積んだのです。

 

その重さで安定して船を運航していったということです。

 

この船の帰りに出雲から鉄をつんで帰ってきたのではないかと

 

言われます。

 

新潟で降ろし、三条まで持ってくる。

 

あるいは大崎の辺りまで持ってきたのではないかと推測できます。

 

書き物が残っていないので、わかりませんけれども。

 

これを何とかするには火が必要なわけです。

 

炭を作る技術、火を作って極めて高熱を発しなければならない

 

ということです。

 

古代の鞴(ふいご)というのは、鹿の皮で袋を作りまして、

 

手でアコーディオンみたいにぱたぱたして、

 

風を出すというものだったのですが、

 

次第に変化しまして、木でやや大型の鞴を作ったということです。

 

蹈鞴(たたら)というのもあって、

 

何人かで足で踏んで大きな板をぱたぱたさせて火をおこす

 

というものもありました。

 

ただですね刀鍛冶が居たという話はありませんね。

 

三条神楽の三条小鍛冶、

 

実はこれ三条の小鍛冶だと思っている方も多いですが、

 

京都の三条通りのことです。

 

これは能です。

 

能の中の小鍛冶のことです。

 

天皇から刀を作るように命じられたのですが、

 

思うようなものができず、

 

狐が出てきて手伝ってくれて、名剣ができた、こんな話です。

 

さて、中世の終わり頃から次第に干拓が考えられてきました。

 

越後の湿地帯を米ができるような田んぼに変える。

 

そうしますと農具がたくさん必要になります。

 

農具を作る鍛冶が当然いたのだろうと思います。

 

これについても詳しいことはわかっておりません。

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